立体は気になります
今年、目の病気をしまして。
それほど長くなかったのですが、一時期、眼帯をつけて生活していました。
右目のフォーカス部分が、ちょっといかれちゃってたんです。今は、ほぼ戻っているんですけど。
「片側のみ」で生活してみると、いろんな発見がありました。言ってみれば、「へぇ〜」の連続でして。
とにかく、びっくりしたのが、物事の奥行きが瞬時に分からなくなることでした。
左目は大丈夫だったので、それほど日常生活に困難はないだろうとタカをくくっていたんですが、大間違いでした。例を挙げれば、自転車での移動なんか、本当に怖いものでした。(「やっちゃいけないこと」の上位ランクなんでしょうけど、つい...)
何と言うか、常に歩行者がいきなり飛び出してくるような感じだったのです。もちろん、画像としては「見えて」いるんですけど。これは上手く説明できない、不思議な現象でした。「片側のみ」に慣れていなかったからかもしれませんけど。
目は二つありますが、これには理由があるんだなぁと、今さらのように感心しまして。
相変わらず、小学生みたいな感想で恥ずかしいんですが。
ただ、ここでちょっと思ったことが一つ。
右目と左目はちょっと場所が違います。当たり前ですが、瞳に映っている像は、左右で微妙に違っていると思うんです。
この情報のズレが、「立体感」を生む源泉になるんじゃないか?とか思ったんです。そうでなければ、あの奥行きが瞬時に分からなかった現象の説明がつかないのです。
もしくは、そのズレがある情報の状態「こそ」を、自分達はこれまで、「立体的」と呼んできたんじゃないのか?なんて考えちゃいまして。
同じ対象物に関する二つの「ズレた」情報が、脳に伝わると、リッチな映画のようになって「上映」される...ということなのか?とも。
微妙に違う「ズレた」映像を与えると、人間はどうしようもなく「立体的に」感じてしまう、ということもあるかも... ん?ということは、ズレてればいいわけで、「立体的」は人工的にも作れるのか?とも考えたりしまして。
眼も二つですが、耳も二つありあます。
位置的に「ズレた」情報を脳に伝えるのは、耳も一緒だと思うんです。
同様の話ですが、イヤホンを片側だけつけて聴くのと、両方の場合ですと「立体感」が違います。
特にそういった部分を強調している音源ですと、段違いです。コンサートのライブ録音盤を想像すると分かりやすいでしょうか。
ただ、「違う」情報というよりも、「ズレた」情報。これがキモのような気がします。
そして、それを二つ以上用意すること。
この辺が、「立体感」を考える時のキーになるような感じがしています。
もう少し考えると、「面白い風景」が見えてきそうです。ただ自分にはもう一押しが必要な感じです。何かひらめきそうなんですけど。
そもそも、「違う」と「ズレた」の境目は、どの辺にあるんだろう?とか考えてみるのも興味深いです。
大学の研究室にいるような方々には、何を今更言ってんの?と笑われるのかもしれませんが。
自分は、パフォーミングアーツをメインで手がけているので、そういうことには敏感なところがあります。
2016年からの『0dB』のパフォーマンス・シリーズで、「臨場感」のことを真正面から考えてきましたし。
更に言えば、収録後の映像作品としてではなく、「ライブ・ショウ」として際立っている作品を、もっと観たいなぁと常日ごろ思っているのです。
その場でしか味わえないようなものって、どんなこと?とか、「体感」ってどういう状態?とか、思いを巡らせることがしょっちゅうです。
「立体感」の話もここにつながってきます。
パフォーマーやシアターというものが立体なので、当たり前なのですが、時々「立体的」と評されるショウはあります。その演出は、一体、何がどうなっているの?と解析したくなります。どの辺が強調されていると、そう言われてしまうんでしょうか。気になるところです。
多分、「臨場感」というものにも関わってくると思うんですけど。
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「好き」は「キレイ」なのか?
とある女優さんの、昔の話です。
特定されないように、少しぼかします。
その人が、 本番用の小道具を、ご自分の好みのものに変えてしまったことがありまして。
リハーサルで使っていたものより、少し小さいものを本番直前に、ご自分の判断で用意してきてしまったのです。ご自身の好みとしては「こちらの方がかわいい」とか思ったのでしょうか。
さすがに「え?」とか、当時のイシヤマは思いましたが、「未熟な自分がまだ知らない <方法論> とか <美学> のようななものがあるのかな?」とか想像力を働かせていました。
まぁ、あまり出くわさない事だとは思いますが。
「じゃ、演出とかディレクションって、一体何なの?」ということにもなりますし。
で。
結果としては、リハーサルの時と、人物と小道具の比率が変わってしまって、「いいシーン」ではなくなってしまったんです。本当に絶妙なバランスだったわけでして。
人が考える「カッコいい」は、なかなか繊細な地平に立っているもんなんだなぁと痛感した次第です。
イシヤマは、メインで関わっていたプロジェクトではなかったので、「あ〜ぁ」で済みましたが、ディレクターチームは、リハーサルの時に盛り上がっていただけに、結構な落ち込みようでした。
これは、「自分の好みの服」と「自分がキレイに見える服」は必ずしも一致しない、みたいな話に近いでしょうか。
正直、イシヤマも「これ、自分の体型とか肌の色には似合わないないんだよなぁ(似合わないって言われるんだよなぁ)」という、フォルム/カラーの服は結構あります。
それは否定的なものではなく、「そういうことも、あるんだねぇ」くらいに思っていれば、まぁいいんじゃないでしょうか。それを知っておくと、そこから「応用」もしやすくなるというだけなんです。
一つあるのは、それを「知っている/知らない」は、かなり大きな差になってくるよなぁというだけです。
自分のことを第三者的視点で見れないと、いろんなことが厳しくなるんじゃない?という、当たり前すぎる現実があります。これは不特定多数に「発信」をする際の話です。
まぁ基本的には、自分の「好き/嫌い」に基づいて、何でも行動すればいい、とイシヤマは思っています。それは間違いのないところなんですけど。
「好きこそ物の上手なれ」じゃないですが、「好み」でなければ、いいアプローチ/アクションに辿り着くのは大変ですし。
ただ「好み」の範囲が狭いと、自分の意図を伝える際に、かなり入念な戦略を練ることを強いられるんじゃないかなぁと。覚悟を決めて、時間をかけて対処できるのなら、それでもいいとは思いますが。
アウトプットのバリエーションのことも、どうしても考えてしまいます。また、そこから広がってゆく「可能性」の束を、自ら手放すことにならないといいなぁとも思ってしまいます。
単なる「思いつき」と「好み」のみだと、「ラッキーな瞬間」は、訪れづらくなるんじゃないでしょうか。どうでしょう?
自分が演出/振付業をしているので、なおさらそう思うのかもしれません。
「こう動けば、あの人はもっとカッコよくなるなぁ」ということは、クリエーション中はいつも考えていますし。
もちろん他人からの「視線」が、全て正しいというわけでもありません。
何と言うか、「自分のことは、自分が一番分かっている」というありがちな物言いが、「ホント?」「そうでもないかもよ?」と思うだけでして。
考える/感じる場所と同じところにあるもの(=自分)なんて、よく「分からない」のが当たり前じゃないかなぁと。
近づいたり引いたりして、観察出来ないわけですし。
そういうことのシミュレーションとして、イシヤマも出演業をやる時に、リハーサルでビデオカメラを回してチェックを繰り返したりするんですけどね。「テクノロジー」を使っても、まぁなかなかタッチ出来ない領域もあるものでして。
「体が二つあればいいのに」という、間の抜けた溜め息になってしまうことがほとんどです。
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「つぎ」は来ない
Apple Watchを「普段使い」の腕時計にしています。
最初はデジタルのものを探していただけで、スマートウォッチなんて視野に入ってなかったんですけど。四角いスポーティではないデジタル時計は、今、数が少ないみたいでして。
ただ、詳しく下調べもせずに購入して使ってみたのですが、思わぬ副産物がありました。
この「腕時計」は、しゃべってメモがとれるんです。
これは大きいです。
幸運にも訪れた「ひらめき」を逃すことなく、その痕跡を残すことができるのです。しかも「しゃべって」です。
書くよりもしゃべる方が楽に感じる人間にとっては、このポイントを喜ばないわけにはいきません。「テクノロジー、やるなぁ」と小学生のような呟きも、つい出てしまいます。
更に付け加えると、メモと書きましたが、これは音声ではありません。テキストデータなのです。ピンとこないかもしれませんが、 ICレコーダー的な話ではないのです。
『ほんじつはせいてんなり まる こんなかんじに てん きろくされるのです まる』
と「腕時計」にしゃべると、
『本日は晴天なり。こんな感じに、記録されるのです。』
と、テキストに即座に変換されるのです。
(「てん」とか「まる」は、今回のために敢えてしゃべってみてます)
あとは、ご想像の通りです。
一旦デジタル化してしまえば、iPhoneでもPCでも、好きなエディタに持ち込んで、アイデアを深めることが容易になります。
音声入力のことはあまり追いかけて来なかったので、この精度とスピードには驚きました。
とにかく、自分は、忘れっぽっくて飽きっぽくて、いろんな作業を同時に進行してしまいがちなんです。
「ひらめき」も、イシヤマの頭にそれなりに訪れるのですが、その「しっぽ」をすぐに捕まえないと、何処かに消えていってしまうのです。
しかも、その「訪れ」のタイミングが予想出来ないのが、本当に困ってしまうところでして。
よく、散歩や移動のタイミングでメモを取りますが、これまでの「標準装備」は、ポケットに入る小型の手帳とペン、そして iPhoneでした。
その「訪れ」に遭遇したら、その場でメモしまくってました。
今は「腕時計」だけの時もあります。
ポケットからものを出さなくて済むようになったので、とにかく速く行動に移せて、「取りこぼし」も減ったように思います。
以前は、デスクに戻ったら、このアイデアをきれいにまとめて、資料にしよう〜と意気込んだりもしましたが、失敗の連続でした。
さらに言えば、「そのつぎ」、「そのあと」、「ベストなタイミング」...なんてものは来ないのです。 これは学習しました。「その時」に出来ないことは、かなりの確率で、水面下に沈んでいってしまうのです。
「ふくらめる」ことも出来なかったアイデアが、これまでウン百万もあったかと思うと、ぞっとします。もったいないと言いますか。
なので、正確でなくても、何らかの痕跡を「その時」に残すことの方を、イシヤマは重要視しています。
完璧主義は危険です。キレイなメモ(情報量すかすか)よりも、殴り書きのメモ(情報量∞)の方が、血となり肉となるのです。
イシヤマの振付アイデアのメモなんて、かなり雑です。
実際の例を上げます(これはiPhone で書いたものです)。
『両手が磁石の反発でトルソーから一気に離れる。そこから水平面をなでて、ゆっくりと上へ。で、モグラ。』
これは2016年頃のものです。
どの作品の、どのダンサーの動きのところのアイデアかは、自分には分かります。
他の人には「??????」でしょう。それくらいでいいんです。
まぁ、「ひらめき」の「しっぽ」を捕まえるには、アクションをシンプルにすることと、アクションの数を減らすのが、自分にとっては近道なのかなと思っています。
ただやっぱり、「腕時計」に向かってしゃべるのは恥ずかしいです。
こそこそしながらやってます。
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芸事の◎◎み
「あいちトリエンナーレ2019」について、まだまだいろんな意見が飛び交っているようです。
正直、自分は、今の状況を細かく追いきれてはいません。
ただ『次回以降の「あいちトリエンナーレ」をどのようにしたら、より良くできるのか?』というポイントを第一に考えるのがベターなんじゃない?とは思っています。
こういう「トラブル」時には、いつもそう感じてます。
ちょっと思い出したことがありまして。
自分達をパフォーマンス・フェスティバルに招聘してくれた、北欧の国立美術館のディレクターの話です。「あいちトリエンナーレ」で言うところの、「芸術監督」に当たる人です。
イシヤマ達と仕事した後に、グラフィティの展覧会をそこの美術館で開催したそうです。規模もけっこう大きかったようです。
HIPHOPの四大要素のうちの一つの、アレです。
地下鉄車両へのボミング等、強烈な展開を当初していたので、単なる「落書き」と言われていたり、「アートとしては認めない!」みたいな時期があったのも仕方のない事でしょう。
大切な自宅の建物に、気に入らないテイストの絵を描かれたら、まぁ「勘弁してよ〜」という気分になるのは分からないでもありません。
その国立美術館での展覧会も、それなりの物議を醸したんだそうです。
2000年以降のことで、もうグラフィティも現代アートのワクで語られることも多くなっていた時だったんですけどね。
ネガティブ方向の「お問い合わせ」もかなりあったそうです。
それでも、そのディレクターは展覧会を中止しなかったんです。
準備も相当に重ねたんでしょうけど、そんなことを考えたこともなかったそうです。
「自分が、ディレクターとして、これを選んだんだ」という責任を持って、当たり前のように展覧会を遂行したのです。
追加してやったこととしては、そちら方面の人達との「徹底的な話し合い」だったそうです。
イシヤマの「アート」に対するイメージって、こういうものなんです。
「芸術監督」という人も、プログラミング(発表する作品のチョイス)の最終的な全責任を負う人......のように認識してます。
だから、アート・フェスティバルが成功した際には、尊敬をこれでもかと受けるわけですし、プレッシャーがかかりまくるのが「通常運行」の仕事なんじゃないかと。
あいちトリエンナーレの『表現の不自由展・その後』が展示中止になったとの報を聞いて、「ん? どういうこと?? んん?」というのが正直な感想です。
何かモヤモヤした「あれ? アートってそういうものだっけ?」みたいな感じでしょうか。
音楽でも絵画でもダンスでも、アートもの/芸事の「凄み」に一回でも触れちゃった人は、相当の「覚悟」を決めて対峙するような気がするんです。芸事に携わることになった際には。
一つには、一歩間違えれば、芸事そもそもが持っている「狂気」のようなものに、足下をすくわれてしまうからです。また、芸事の「それまで」に、畏れ/恐れを自然と抱いてしまう、ということもあるでしょう。
何と言うか、「やるのならやり尽くさないと、芸事に失礼だ」みたいな想いが、沸き出てくるんだと思うんです。
そこから「今、自分は、何をやるのか?」をいろんな方向から考えていっているのが、アート/芸事だと。特に「コンテンポラリー」と冠がつくものは、そういうものではないでしょうか。
これは、イシヤマがパフォーミング・アーツ方面の人間だからかもしれません。
「ショウ・マスト・ゴーオン」の精神と言いますか。
芸事の「凄み」に触れずに、大人になることも可能です。
もしかしたら、そういう人の方が多いかもしれません。
やはり、芸事は「生き延びる」ためには、優先順位が低いものと認識されること多いですし。
ただ『「生きる」ためには、必須のものなんだ』というシンプルなところを、説得力を持って訴えかけるチカラが、芸事のフェスティバル・ディレクターには必要なわけです。
そうなると、焼き印のように、芸事の「凄み」に「やられちゃった」記憶がある人じゃないと、厳しいんだろうなぁと思っています。
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