「上手い/下手」以外...?

パンクとかニューウェイブとか好きでした。

そういうバンドを組んでいたくらいでしたし。もちろん、今でも好きでして。
もう、そっち方面のレコードは買わなくなりましたけど。

 例えばこういうもの↓でしょうか。


Bauhaus - of lillies and remains (studio)


自分はそういう音楽に、小学校の時に触れたと記憶していますが、それまでに聞いてた歌謡曲とかロック/ポップスとは違う「肌触り」でした。ロックといえばロックなんですけど。

楽曲のフレーズとかが独特で、「どうやって弾いているのか分からない」とか「どんな楽器を使って、この音を出してるんだろう」とか、よく思っていました。

 

いわゆる「プロの楽器プレーヤー」ではない人が、その界隈に多かったからだと思うのですが、当時は妙な「アイデアあふれたプレイ」がかなりありました。
ギターって、まだまだいろんな音が出せるもんだなぁとか、エフェクターって可能性があるなぁとか、こちらも、それまでの音楽に対するものとは、ちょっと違う感想が多かったように思います。

 

当時はイシヤマも頭が固かったので、「この曲は五線譜に表せるのか?」「できるとしたら、どんな感じなのか?」等、よく考えてました。五線譜に表せられないと、練習しずらいよね?とか、変な疑問もありました。恥ずかしくなりますが、頭が固い人の典型だったかもしれません。

 



今も思い出すことがあります。
「素人でも参加できる音楽の形!」とパンク/ニューウェイブを、当時のメディアが書き立てていたんです。不思議でした。

 

今でもそういう言い方は聞きますが、イシヤマは正反対の感触を持っていたんです。
楽器演奏の上手い/下手ではなく、「センス」という謎のものが突出している楽曲は、練習すれば到達できるという地平には立っていないんです。となると、逆に「しんどい」んじゃないかと思っていたんです。

 

要は、楽器演奏が下手だったら、練習して上手くなればいいんじゃん〜という事なんです。
しかし「そこ」に、パンク/ニューウェイブはいないわけです。より難しい事になるのは自明の理じゃないでしょうか。

 

もちろん、練習することが容易いことではないのは百も承知です。プロの様々な楽器プレーヤーさんの日々の努力を知っているだけに、軽く思っているわけではないんですが。

 

ただ、「それまで」とは「ゲーム」が違っていたんです
練習しても手に入ることが保証されない、「センス」という謎のものが中心にあったんですから。言い換えれば、練習しなくとも獲得できる可能性「も」あるものが、そこにあったと言いますか。

(じゃ、練習ではなく、何をすればいいんだろう、何を磨けばいいんだろう、ということにもなるんですが。難しいところです)

ただ、この辺の事を突いてくる論評には、あまりお目にかかれませんでした。

photo by Yohta Kataoka

 

クリエーションとかアート活動をする際に、自分が一番怖いのは、「やり方」が分からないことなんです。

何かしら、困ることや、よろしくない事態に出くわすことって、何回となくあるんです。
その解決法として、金銭をベースにしたやり方でも、予算が許すなら、それでもいいんです。他にも、外部のテクニカルの人に助けてもらってもいいと思うんです。全ての過程を100%、アーティスト自身がやらねばならない、ということはないでしょうし(程度の問題はあるとは思いますが)。

 

しかし「どうしたらいいか分からない」という状態で、クリエーションや思考が、不本意な形でストップするのは、恐怖です。今もそこだけは避けたいところだよなぁと思っています。

「お金を用意できれば〜」とか「◯◯さんに仕上げをお願いできれば〜」がクリアになっていれば、少なくともプロジェクト自体は動かせる可能性が高まります

 



自分とってはパンク/ニューウェイブは、当初、「やり方」が分からないものの権化でした。
自分の頭が柔らかくなってからは、なんとか楽曲のコピー(に近いもの)も出来たりするようになりましたが、やはり年月はかかりましたし、「素人でもできる音楽」じゃないよな〜と思ったものです。

 

今は、あの時のメディアのアレは、物事に対して、「上手い/下手」以外の評価基準を持たない人が、「素人でもOK」みたいな物言いをしただけなんだろうなぁと思っています。

自分も今、それなりにキャリアを積んできてしまっているので、気をつけないと...みたいなところでして。

 


 

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立体は気になります

今年、目の病気をしまして。
それほど長くなかったのですが、一時期、眼帯をつけて生活していました。
右目のフォーカス部分が、ちょっといかれちゃってたんです。今は、ほぼ戻っているんですけど。

 

「片側のみ」で生活してみると、いろんな発見がありました。言ってみれば、「へぇ〜」の連続でして。

とにかく、びっくりしたのが、物事の奥行きが瞬時に分からなくなることでした。

 

左目は大丈夫だったので、それほど日常生活に困難はないだろうとタカをくくっていたんですが、大間違いでした。例を挙げれば、自転車での移動なんか、本当に怖いものでした。(「やっちゃいけないこと」の上位ランクなんでしょうけど、つい...)

 

何と言うか、常に歩行者がいきなり飛び出してくるような感じだったのです。もちろん、画像としては「見えて」いるんですけど。これは上手く説明できない、不思議な現象でした。「片側のみ」に慣れていなかったからかもしれませんけど。

 

目は二つありますが、これには理由があるんだなぁと、今さらのように感心しまして。
相変わらず、小学生みたいな感想で恥ずかしいんですが。

photo by Yohta Kataoka

 

ただ、ここでちょっと思ったことが一つ。

右目と左目はちょっと場所が違います。当たり前ですが、瞳に映っている像は、左右で微妙に違っていると思うんです。

 

この情報のズレが、「立体感」を生む源泉になるんじゃないか?とか思ったんです。そうでなければ、あの奥行きが瞬時に分からなかった現象の説明がつかないのです。

もしくは、そのズレがある情報の状態「こそ」を、自分達はこれまで、「立体的」と呼んできたんじゃないのか?なんて考えちゃいまして。

 

同じ対象物に関する二つの「ズレた」情報が、脳に伝わると、リッチな映画のようになって「上映」される...ということなのか?とも。

微妙に違う「ズレた」映像を与えると、人間はどうしようもなく「立体的に」感じてしまう、ということもあるかも... ん?ということは、ズレてればいいわけで、「立体的」は人工的にも作れるのか?とも考えたりしまして。

 


 

眼も二つですが、耳も二つありあます。
位置的に「ズレた」情報を脳に伝えるのは、耳も一緒だと思うんです。

 

同様の話ですが、イヤホンを片側だけつけて聴くのと、両方の場合ですと「立体感」が違います
特にそういった部分を強調している音源ですと、段違いです。コンサートのライブ録音盤を想像すると分かりやすいでしょうか。

 

ただ、「違う」情報というよりも、「ズレた」情報。これがキモのような気がします。
そして、それを二つ以上用意すること。
この辺が、「立体感」を考える時のキーになるような感じがしています。

 

もう少し考えると、「面白い風景」が見えてきそうです。ただ自分にはもう一押しが必要な感じです。何かひらめきそうなんですけど。

そもそも、「違う」と「ズレた」の境目は、どの辺にあるんだろう?とか考えてみるのも興味深いです。

大学の研究室にいるような方々には、何を今更言ってんの?と笑われるのかもしれませんが。

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自分は、パフォーミングアーツをメインで手がけているので、そういうことには敏感なところがあります。
2016年からの『0dB』のパフォーマンス・シリーズで、「臨場感」のことを真正面から考えてきましたし。

更に言えば、収録後の映像作品としてではなく、「ライブ・ショウ」として際立っている作品を、もっと観たいなぁと常日ごろ思っているのです。

その場でしか味わえないようなものって、どんなこと?とか、「体感」ってどういう状態?とか、思いを巡らせることがしょっちゅうです。

 

「立体感」の話もここにつながってきます。
パフォーマーやシアターというものが立体なので、当たり前なのですが、時々「立体的」と評されるショウはあります。その演出は、一体、何がどうなっているの?と解析したくなります。どの辺が強調されていると、そう言われてしまうんでしょうか。気になるところです。

多分、「臨場感」というものにも関わってくると思うんですけど。

 


 

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「好き」は「キレイ」なのか?

とある女優さんの、昔の話です。
特定されないように、少しぼかします。

その人が、 本番用の小道具を、ご自分の好みのものに変えてしまったことがありまして。

リハーサルで使っていたものより、少し小さいものを本番直前に、ご自分の判断で用意してきてしまったのです。ご自身の好みとしては「こちらの方がかわいい」とか思ったのでしょうか。

 

さすがに「え?」とか、当時のイシヤマは思いましたが、「未熟な自分がまだ知らない <方法論> とか <美学> のようななものがあるのかな?」とか想像力を働かせていました。

まぁ、あまり出くわさない事だとは思いますが。
「じゃ、演出とかディレクションって、一体何なの?」ということにもなりますし。

 


 

で。
結果としては、リハーサルの時と、人物と小道具の比率が変わってしまって、「いいシーン」ではなくなってしまったんです。本当に絶妙なバランスだったわけでして。
人が考える「カッコいい」は、なかなか繊細な地平に立っているもんなんだなぁと痛感した次第です。

 

イシヤマは、メインで関わっていたプロジェクトではなかったので、「あ〜ぁ」で済みましたが、ディレクターチームは、リハーサルの時に盛り上がっていただけに、結構な落ち込みようでした。

photo by Yohta Kataoka

 

これは、「自分の好みの服」と「自分がキレイに見える服」は必ずしも一致しない、みたいな話に近いでしょうか。

 

正直、イシヤマも「これ、自分の体型とか肌の色には似合わないないんだよなぁ(似合わないって言われるんだよなぁ)」という、フォルム/カラーの服は結構あります。
それは否定的なものではなく、「そういうことも、あるんだねぇ」くらいに思っていれば、まぁいいんじゃないでしょうか。それを知っておくと、そこから「応用」もしやすくなるというだけなんです。

 

一つあるのは、それを「知っている/知らない」は、かなり大きな差になってくるよなぁというだけです。

 


 

自分のことを第三者的視点で見れないと、いろんなことが厳しくなるんじゃない?という、当たり前すぎる現実があります。これは不特定多数に「発信」をする際の話です。

 

まぁ基本的には、自分の「好き/嫌い」に基づいて、何でも行動すればいい、とイシヤマは思っています。それは間違いのないところなんですけど。
「好きこそ物の上手なれ」じゃないですが、「好み」でなければ、いいアプローチ/アクションに辿り着くのは大変ですし

 

ただ「好み」の範囲が狭いと、自分の意図を伝える際に、かなり入念な戦略を練ることを強いられるんじゃないかなぁと。覚悟を決めて、時間をかけて対処できるのなら、それでもいいとは思いますが。

 

アウトプットのバリエーションのことも、どうしても考えてしまいます。また、そこから広がってゆく「可能性」の束を、自ら手放すことにならないといいなぁとも思ってしまいます。


単なる「思いつき」と「好み」のみだと、「ラッキーな瞬間」は、訪れづらくなるんじゃないでしょうか。どうでしょう?

 

自分が演出/振付業をしているので、なおさらそう思うのかもしれません。
「こう動けば、あの人はもっとカッコよくなるなぁ」ということは、クリエーション中はいつも考えていますし。

photo by Yohta Kataoka

 

もちろん他人からの「視線」が、全て正しいというわけでもありません

何と言うか、「自分のことは、自分が一番分かっている」というありがちな物言いが、「ホント?」「そうでもないかもよ?」と思うだけでして。

 

考える/感じる場所と同じところにあるもの(=自分)なんて、よく「分からない」のが当たり前じゃないかなぁと。

近づいたり引いたりして、観察出来ないわけですし。

 

そういうことのシミュレーションとして、イシヤマも出演業をやる時に、リハーサルでビデオカメラを回してチェックを繰り返したりするんですけどね。「テクノロジー」を使っても、まぁなかなかタッチ出来ない領域もあるものでして。

「体が二つあればいいのに」という、間の抜けた溜め息になってしまうことがほとんどです。

 


 

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「つぎ」は来ない

Apple Watchを「普段使い」の腕時計にしています。


最初はデジタルのものを探していただけで、スマートウォッチなんて視野に入ってなかったんですけど。四角いスポーティではないデジタル時計は、今、数が少ないみたいでして。

ただ、詳しく下調べもせずに購入して使ってみたのですが、思わぬ副産物がありました。

この「腕時計」は、しゃべってメモがとれるんです。

 


 

これは大きいです。
幸運にも訪れた「ひらめき」を逃すことなく、その痕跡を残すことができるのです。しかも「しゃべって」です。

書くよりもしゃべる方が楽に感じる人間にとっては、このポイントを喜ばないわけにはいきません。「テクノロジー、やるなぁ」と小学生のような呟きも、つい出てしまいます。

更に付け加えると、メモと書きましたが、これは音声ではありません。テキストデータなのです。ピンとこないかもしれませんが、 ICレコーダー的な話ではないのです。

 

『ほんじつはせいてんなり まる こんなかんじに てん きろくされるのです まる』

と「腕時計」にしゃべると、

『本日は晴天なり。こんな感じに、記録されるのです。』

と、テキストに即座に変換されるのです。
(「てん」とか「まる」は、今回のために敢えてしゃべってみてます)

Apple Watch 入力画面

実際の入力画面


あとは、ご想像の通りです。
一旦デジタル化してしまえば、iPhoneでもPCでも、好きなエディタに持ち込んで、アイデアを深めることが容易になります。

音声入力のことはあまり追いかけて来なかったので、この精度とスピードには驚きました

 


 

とにかく、自分は、忘れっぽっくて飽きっぽくて、いろんな作業を同時に進行してしまいがちなんです。

「ひらめき」も、イシヤマの頭にそれなりに訪れるのですが、その「しっぽ」をすぐに捕まえないと、何処かに消えていってしまうのです。

しかも、その「訪れ」のタイミングが予想出来ないのが、本当に困ってしまうところでして。

 

よく、散歩や移動のタイミングでメモを取りますが、これまでの「標準装備」は、ポケットに入る小型の手帳とペン、そして iPhoneでした。
その「訪れ」に遭遇したら、その場でメモしまくってました。

今は「腕時計」だけの時もあります。

ポケットからものを出さなくて済むようになったので、とにかく速く行動に移せて、「取りこぼし」も減ったように思います。

photo by Yohta Kataoka

 

以前は、デスクに戻ったら、このアイデアをきれいにまとめて、資料にしよう〜と意気込んだりもしましたが、失敗の連続でした。

さらに言えば、「そのつぎ」、「そのあと」、「ベストなタイミング」...なんてものは来ないのです。 これは学習しました。「その時」に出来ないことは、かなりの確率で、水面下に沈んでいってしまうのです。

「ふくらめる」ことも出来なかったアイデアが、これまでウン百万もあったかと思うと、ぞっとします。もったいないと言いますか。

 

なので、正確でなくても、何らかの痕跡を「その時」に残すことの方を、イシヤマは重要視しています。

完璧主義は危険です。キレイなメモ(情報量すかすか)よりも、殴り書きのメモ(情報量∞)の方が、血となり肉となるのです。

 


 

イシヤマの振付アイデアのメモなんて、かなり雑です。
実際の例を上げます(これはiPhone で書いたものです)。

 

『両手が磁石の反発でトルソーから一気に離れる。そこから水平面をなでて、ゆっくりと上へ。で、モグラ。』

 

これは2016年頃のものです。
どの作品の、どのダンサーの動きのところのアイデアかは、自分には分かります。
他の人には「??????」でしょう。それくらいでいいんです。

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まぁ、「ひらめき」の「しっぽ」を捕まえるには、アクションをシンプルにすることと、アクションの数を減らすのが、自分にとっては近道なのかなと思っています。

 

ただやっぱり、「腕時計」に向かってしゃべるのは恥ずかしいです。
こそこそしながらやってます。

 


 

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