芸事の◎◎み

「あいちトリエンナーレ2019」について、まだまだいろんな意見が飛び交っているようです。


正直、自分は、今の状況を細かく追いきれてはいません。

 

ただ『次回以降の「あいちトリエンナーレ」をどのようにしたら、より良くできるのか?』というポイントを第一に考えるのがベターなんじゃない?とは思っています。
こういう「トラブル」時には、いつもそう感じてます。

 


 

ちょっと思い出したことがありまして。

自分達をパフォーマンス・フェスティバルに招聘してくれた、北欧の国立美術館のディレクターの話です。「あいちトリエンナーレ」で言うところの、「芸術監督」に当たる人です。

 

イシヤマ達と仕事した後に、グラフィティの展覧会をそこの美術館で開催したそうです。規模もけっこう大きかったようです。

 

HIPHOPの四大要素のうちの一つの、アレです。
地下鉄車両へのボミング等、強烈な展開を当初していたので、単なる「落書き」と言われていたり、「アートとしては認めない!」みたいな時期があったのも仕方のない事でしょう。

大切な自宅の建物に、気に入らないテイストの絵を描かれたら、まぁ「勘弁してよ〜」という気分になるのは分からないでもありません。

 

その国立美術館での展覧会も、それなりの物議を醸したんだそうです。
2000年以降のことで、もうグラフィティも現代アートのワクで語られることも多くなっていた時だったんですけどね。

 

ネガティブ方向の「お問い合わせ」もかなりあったそうです。

それでも、そのディレクターは展覧会を中止しなかったんです。
準備も相当に重ねたんでしょうけど、そんなことを考えたこともなかったそうです。
「自分が、ディレクターとして、これを選んだんだ」という責任を持って、当たり前のように展覧会を遂行したのです。

 

追加してやったこととしては、そちら方面の人達との「徹底的な話し合い」だったそうです。

photo by Yohta Kataoka

 

イシヤマの「アート」に対するイメージって、こういうものなんです。
「芸術監督」という人も、プログラミング(発表する作品のチョイス)の最終的な全責任を負う人......のように認識してます。

 

だから、アート・フェスティバルが成功した際には、尊敬をこれでもかと受けるわけですし、プレッシャーがかかりまくるのが「通常運行」の仕事なんじゃないかと。

 


 

あいちトリエンナーレの『表現の不自由展・その後』が展示中止になったとの報を聞いて、「ん? どういうこと?? んん?」というのが正直な感想です。

 

何かモヤモヤした「あれ? アートってそういうものだっけ?」みたいな感じでしょうか。

 


 

音楽でも絵画でもダンスでも、アートもの/芸事の「凄み」に一回でも触れちゃった人は、相当の「覚悟」を決めて対峙するような気がするんです。芸事に携わることになった際には。

 

一つには、一歩間違えれば、芸事そもそもが持っている「狂気」のようなものに、足下をすくわれてしまうからです。また、芸事の「それまで」に、畏れ/恐れを自然と抱いてしまう、ということもあるでしょう。

 

何と言うか、「やるのならやり尽くさないと、芸事に失礼だ」みたいな想いが、沸き出てくるんだと思うんです。

そこから「今、自分は、何をやるのか?」をいろんな方向から考えていっているのが、アート/芸事だと。特に「コンテンポラリー」と冠がつくものは、そういうものではないでしょうか。

 

これは、イシヤマがパフォーミング・アーツ方面の人間だからかもしれません。
「ショウ・マスト・ゴーオン」の精神と言いますか。

photo by Yohta Kataoka

 

芸事の「凄み」に触れずに、大人になることも可能です。

もしかしたら、そういう人の方が多いかもしれません。
やはり、芸事は「生き延びる」ためには、優先順位が低いものと認識されること多いですし。

 

ただ『「生きる」ためには、必須のものなんだ』というシンプルなところを、説得力を持って訴えかけるチカラが、芸事のフェスティバル・ディレクターには必要なわけです。

そうなると、焼き印のように、芸事の「凄み」に「やられちゃった」記憶がある人じゃないと、厳しいんだろうなぁと思っています。

 


 

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Original photos courtesy of Yohta Kataoka