「好き」は「キレイ」なのか?

とある女優さんの、昔の話です。
特定されないように、少しぼかします。

その人が、 本番用の小道具を、ご自分の好みのものに変えてしまったことがありまして。

リハーサルで使っていたものより、少し小さいものを本番直前に、ご自分の判断で用意してきてしまったのです。ご自身の好みとしては「こちらの方がかわいい」とか思ったのでしょうか。

 

さすがに「え?」とか、当時のイシヤマは思いましたが、「未熟な自分がまだ知らない <方法論> とか <美学> のようななものがあるのかな?」とか想像力を働かせていました。

まぁ、あまり出くわさない事だとは思いますが。
「じゃ、演出とかディレクションって、一体何なの?」ということにもなりますし。

 


 

で。
結果としては、リハーサルの時と、人物と小道具の比率が変わってしまって、「いいシーン」ではなくなってしまったんです。本当に絶妙なバランスだったわけでして。
人が考える「カッコいい」は、なかなか繊細な地平に立っているもんなんだなぁと痛感した次第です。

 

イシヤマは、メインで関わっていたプロジェクトではなかったので、「あ〜ぁ」で済みましたが、ディレクターチームは、リハーサルの時に盛り上がっていただけに、結構な落ち込みようでした。

photo by Yohta Kataoka

 

これは、「自分の好みの服」と「自分がキレイに見える服」は必ずしも一致しない、みたいな話に近いでしょうか。

 

正直、イシヤマも「これ、自分の体型とか肌の色には似合わないないんだよなぁ(似合わないって言われるんだよなぁ)」という、フォルム/カラーの服は結構あります。
それは否定的なものではなく、「そういうことも、あるんだねぇ」くらいに思っていれば、まぁいいんじゃないでしょうか。それを知っておくと、そこから「応用」もしやすくなるというだけなんです。

 

一つあるのは、それを「知っている/知らない」は、かなり大きな差になってくるよなぁというだけです。

 


 

自分のことを第三者的視点で見れないと、いろんなことが厳しくなるんじゃない?という、当たり前すぎる現実があります。これは不特定多数に「発信」をする際の話です。

 

まぁ基本的には、自分の「好き/嫌い」に基づいて、何でも行動すればいい、とイシヤマは思っています。それは間違いのないところなんですけど。
「好きこそ物の上手なれ」じゃないですが、「好み」でなければ、いいアプローチ/アクションに辿り着くのは大変ですし

 

ただ「好み」の範囲が狭いと、自分の意図を伝える際に、かなり入念な戦略を練ることを強いられるんじゃないかなぁと。覚悟を決めて、時間をかけて対処できるのなら、それでもいいとは思いますが。

 

アウトプットのバリエーションのことも、どうしても考えてしまいます。また、そこから広がってゆく「可能性」の束を、自ら手放すことにならないといいなぁとも思ってしまいます。


単なる「思いつき」と「好み」のみだと、「ラッキーな瞬間」は、訪れづらくなるんじゃないでしょうか。どうでしょう?

 

自分が演出/振付業をしているので、なおさらそう思うのかもしれません。
「こう動けば、あの人はもっとカッコよくなるなぁ」ということは、クリエーション中はいつも考えていますし。

photo by Yohta Kataoka

 

もちろん他人からの「視線」が、全て正しいというわけでもありません

何と言うか、「自分のことは、自分が一番分かっている」というありがちな物言いが、「ホント?」「そうでもないかもよ?」と思うだけでして。

 

考える/感じる場所と同じところにあるもの(=自分)なんて、よく「分からない」のが当たり前じゃないかなぁと。

近づいたり引いたりして、観察出来ないわけですし。

 

そういうことのシミュレーションとして、イシヤマも出演業をやる時に、リハーサルでビデオカメラを回してチェックを繰り返したりするんですけどね。「テクノロジー」を使っても、まぁなかなかタッチ出来ない領域もあるものでして。

「体が二つあればいいのに」という、間の抜けた溜め息になってしまうことがほとんどです。

 


 

http://www.info-api.com/

https://www.facebook.com/YuzoIshiyama.API/ 

https://www.instagram.com/yuzo.ishiyama/

 


Original photos courtesy of Yohta Kataoka