メッセージ「のみ」...なの?

この前、急にかしこまって「訴えたいメッセージって何ですか?」とか聞かれました。
あまりに唐突だったので面くらったのですが、「そう言われてみりゃ何だろ?」とか「何か質問が変だな〜?」とかいろいろ考えちゃいました。

 

これは、自分のアート活動に関するインタビューものの下打ち合わせの時のことだったんです。どうもインタビュアーさんは訴えたいメッセージがあるから「こそ」、その活動をイシヤマがしていると思っているようだったんです。

この辺はよく勘違いされるところかなぁと。

 


 

まず断言しないとならないのは、アートはメッセージの「入れ物」のみではないということでしょうか。
アート作品を作るきっかけとなる「感情」や「想い」はあるでしょうが、それを乗せるため「だけ」にアートは存在しているのではないのです。
もしそこに特化するなら、論文を出版したり、メッセージソングを広めたりした方がいいように思うのです。そうした方が効率的でしょう。

 

自分は、ふざけたように響くかもしれませんが、「アートをやりたいからアートをやっている」んです。「見てみたい情景」や「聴きたい音像」があるんで、それを何とかして実現させようとしているだけというのが「出発点」、すなわち「アートをやってる理由」なんです。

大きなメッセージのために、あるシーンをあえて仕立てるというのは、なくはないですが、一番最初に来るアクションではないように思うのです。
このへんの過程は、アーティストなら、ほぼ同じだと思います。イシヤマだけではないでしょう。

そっち方面の皆さんは、「作りたい/見たい/聴きたい」具体的なシーン(もしくはそれに繋がる、うっすらとしたアイデア)がまず思い浮かぶものだと思うんですけど。

 


 

で、そこを足がかりにして、とにかく「掘り続ける」わけです。公演初日ぎりぎりまでそれを繰り返すのです。最初のアイデアが、次のアイデアの呼び水になる時もありますし、シーンが発展し過ぎて散らかりまくってしまうこともあります。その整理も「締め切り日」まで「ああでもない、こうでもない」と続くものなんです。

そんな感じが「よくあるパターン」だと思います。単に「デザインを施す」ということではなく、アート作品を作る場合では、ということです。

photo by Yohta Kataoka


そうそう。
「メッセージ〜」もそうですが、「これは何を表現してるんですか?」という質問もよくあります。
これも何百回となく受けてきたものですし、こちらの説明も長くなりがちなので、ちょっと身構えてしまうものです。
ただもちろん、そういうことに対する応答もアーティストとしての仕事のうちだと思っているので、受け止めます。一から説明するので、時間がかかるかもなぁ〜というだけです。

全く説明をしないというのもコミュニケーションの断絶のような感じがしますし、そういう「逃げ」のカードはこちらからは切りません
言葉での説明/解説をしたくなければ、「○○や△△という理由で、言葉で説明することはしないんですよ〜」と言うでしょう。

 

この辺の事情は、アーティスト側がこれまであまりにも明確に発言してこなかったが故に、「観賞する側」とのちょっとしたしたズレを生んでいるのかもしれません。いろいろな個人的な意図はあったにせよ、「作品の裏側」や「創作の背景」を自身の言葉で説明することを、もっと試みてもよかった部分かもしれません。

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とにかく、やりたいことをやった結果がその作品なのだ、ということなのです。何かを説明するために、もしくは何かを訴えかけるためにアートを利用するのは、アートに対して失礼という感じがするのです。

この辺がクライアントがいて、発注される(いわゆる)「デザイン仕事」とはちょっと違う部分かもしれません。

 

両方の仕事を同時期にこなす人もいますが、「同時通訳」みたいなもので、使うアタマの部分が少し違っていると思うのです。これをこなせる人は本当に「マルチタスク」な人なんじゃないかなぁと尊敬してしています。
イシヤマは不器用なところがかなりあって、一つずつのプロジェクトしか集中してこなせないことが多いです。

しかも「デザイン仕事」はなかなか別のスキルのような感じがします。そのエキスパートにはちょっと憧れます。

 


 

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「なんだかなぁ」と柔軟な姿勢

「○○じゃないですか〜」という物言いが、苦手です。
正確に言うと、それの連発に拒否反応があります。

 

自分の前提条件をさらっと他人に押し付けるアレです。これの「連射」を受けると「この人とコミュニケーション取るの大変そうだなぁ」と、どうしても思ってしまうのです。

 

もう少し説明しますと、以下のようなパターンです。

「普通、そういうことって、みんな知らないじゃないですか〜」
「アートって、だいたいマニア向けじゃないですか〜」

...みたいな感じでしょうか。


何と言うか、自分とあなたは一緒でしょ? そう決まってるでしょ?みたいなものの言い方です。悪意がなく無意識ベースっぽいので、ソフトに話しかけられても、話がしづらいです。できないとはいいませんが。

どうして、他人が自分と一緒だと思うんでしょうか。もしくは、なんで、その事柄が「決まって」しまっているんでしょうか。さらに言えば、この物言いを連発する人は、これまで何もトラブルがなかったんでしょうか。不思議です。

photo by Yohta Kataoka


日本語が通じたとしても、他人とは前提条件が違うかもしれない、ということをベースにすれば、日々のコミュニケーションも、もっと実りのあるものになるような気もするんです。「発見」や「気付き」に、より多く出会えるんじゃないかとも思うんですけど。

 

もちろん、そんなもの求めていない、ということなら、こちらも口をつぐみます。
ただ、そうならば「イノベーティブな〜」とか「革新的な〜」とか、素晴らしい文言を二言目に出して、プレゼンするのはアレだなぁと思うんです。正直、このパターンは何回となく味わいました。それは、チグハグ以外の何ものでもありません。

これは、否定でも何でもありません。こういう言い方をしちゃいけないと言うつもりもありません。単に、凝り固まった、自分の前提条件をずらそうともしない状態、他人との違いを「塗りつぶす」ような姿勢に、「なんだかなぁ」と思っているだけです。

 


 

自分は、シアター関連以外の人と話す機会がそれなりにあるんですが、「ちゃんとしている」もしくは「まっとう」と思われている人でも、そういう人が結構いて、びっくりすることがあります。社会的に信用があるとされている人で、バリバリ仕事しそうな中堅どころの人がほとんどなんですけど(だからこそ、仕事ができるということなんでしょうか?)。

 

「保守的」とかそういう説明ではつかないような気がしますし、こちらとしては「あー、またコレね」なんですが、何だかもったいないと思ってしまうんです。少なくとも、イシヤマは身構えて、その人に対する興味は失ってしまっているわけですし。

単純に「わたしは○○と思う/感じている」という言い方で、いいんじゃないでしょうか。

photo by Yohta Kataoka

言葉はしょせん言葉にしか過ぎないと言う考え方もあります。思考と言葉は別というものです。
しかしこちらは言葉や、他の発せられる情報(雰囲気とか仕草でしょうか)を持ってしか、ミーティングの際に、その人を判断する材料がありません。

言葉に「決めつけ」の姿勢がほの見えていると、どうしても「新しいことは望んでいない人なのかな? 口ではオープンとかいろいろ言ってるけど...」と思ってしまいます。そういう直感のようなものは大抵当たるもので、またアレなんですけど。

 



物事には、常に柔軟に対処しておいた方がいいんじゃないかなぁと思っています。
キャリアを重ねると、「あの時と同じパターンだ」というような「思い込み」でタカをくくってしまうこともあります。自分もありましたし、痛い目をみたことも1回や2回ではありません。

まぁそういう「反省」もあるので、凝り固まった偏見のようなものを極力減らして、他人には接するようにこちらは努めています。そうした方が、面白い結果に出会える可能性が高まると分かったからです。理由は単純です。

それを徹底すればするほど、「〇〇じゃないですか〜」の連発からは、自然と距離を取ることになると思うんですが、どうでしょう? 逆に言えば、その状態は、ある一方向からしかモノを見ていないことを、声高に他人に宣伝して歩いてるようにも、見えてしまうんですけど。

 


 

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“ アンガー・イズ・アン・エナジー ”

Public Image Ltd(PIL)の「ライズ」(Rise)という曲には、ちょっとした思い入れがあります。

ずいぶん昔、聴いた時に「あれ? アンガー・イズ・アン・エナジーって歌ってる?」とか思って、印象に残っていまして。

www.youtube.com

 

英語の聞き取りは、今もそれほど得意ではありませんが、当時「もしそうだとしたら、なんかいいこと歌ってる...シンプルで力強いフレーズだし...」とか思っていたのです。

で、しばらくして歌詞を和訳込みで確認したら、本当にその通りだったんです。
「怒りはエネルギーなんだ」(Anger is an energy)とシンガーのジョン・ライドンは繰り返していたんです。シビれました。

 

日本で、イギリスやアメリカのポップス/ロックがあまり聴かれなくなっているらしいとは聞きますが、向こうの楽曲は、ところどころわかるセンテンスが突然飛び込んできて、イマジネーションを刺激されるのが、面白いところだと個人的には思っています。

こういう楽しみ方は洋楽ならではだなぁと。和訳を見て「暗号」をひも解く面白さもありますし。

 


 

で、「アンガー・イズ・アン・エナジーです。
人間には喜怒哀楽の四つがあると言いますが、その中で怒りに関しては結構、負のイメージがついて回っているかもしれません。「なるべく持たないようにしよう」的な考え方もあるようです。

まぁ分からなくもないですが、そこに存在しているのにもかかわらず、ナシにしようというのは無理があるんじゃない?とイシヤマは思っています。否定的になるのは自由ですけど。

 

あっちゃいけないものではなく、それをどこに向けるのか/どうやって納得するのかが問題になるだけではないのでしょうか。欲求不満みたいなものも、それの一種のように思いますし。

その時のよろしくない状態に対して、力強く「否」を突きつける、そしてそれを本気で変えていこうとする原動力は「怒り」しかないような気がするのです。感情ベースの話をすれば。

ただ何かを変えていくリスクの事を考えれば、しぼんでいきやすいものかもしれません。「メンドくさいから、まぁいいか。しょうがないか...」みたいな、よくあるパターンです。

 

しかし、いい意味での「怒り」をキープできて、それをいい方向に発展させることができる人は、「その時」とは違う「いい風景」を見れる可能性が高まるわけです。少なくとも、「現状」とは違う場所に立とうとしたわけですから。
釘を刺しておきますが、あくまでも「暴力」とは直結させない形で、ですけど。

まぁ何と言うか、「現状維持」ではない方向性を持つ人と、「怒り」は親和性が高いのかもしれません。

photo by Yohta Kataoka

 

とは言うものの。
いくつかの「気をつけといた方がいいんじゃない?」と思うところを書いておきます。あくまでもイシヤマの考えですが。

 

まず、過去にとらわれて、ずーっと同じ怒りを持っているのはナンだなぁと思うのです。時間に関係する、どうにもならないことに拘泥するのは、「こだわり」ではないように思うのです。タイムマシンがまだ開発されていないわけですし。
過去の出来事の反省を未来に活かす、とかならいいんですけど。「ま、いいか」も重要なのです

「一回やってみてダメだと思ったら、元に戻ればいい」の姿勢でいいんじゃないでしょうか。


取り返しのつかないことって、実は結構少ないですし、そう思っているのは、自分だけのことも多いんじゃないかと。人の生死に関わることは別ですが。


また「私が怒っているから、なにをしてもいい」「私の怒りが常に最優先される」ということでもありません。この部分は、最近のネットの言説を見ていると、特に強調した方がいいかもしれません。

自分の感情/気分は、他人にとって、強力な説得力には必ずしもなり得ないということなのです。
表明することは重要ですし、「閉じこめることなく、開放しよう」の精神はすがすがしいのですが。

他人にしてみると「だから何なの?」ということでしかないのです。あまりそれ「のみ」を振り回すのは、うまくいくことも頓挫しちゃうかもよ...というところでして。

 

まぁ、まずはPILの「ライズ」を聴いてみてください。

 


 

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「飽きっぽい」のは悪くない

最近「映画館離れ」の記事を目にしました。

news.goo.ne.jp


ここで、取り上げられていた「集中力がない」という声が、こちらにしてみると「へぇ〜」という感じでして。

というのも、イシヤマは、集中力がもたないからこそ、映画館により頻繁に通うようになってきているんです。

まぁこのような状態になっているのも、ここ6-7年くらいで、まだまだこういう「楽しみ方」に新鮮味を感じているだけなのかもしれませんけど。
(それまで、空き時間があれば、極力、シアターやライブハウスに通っていたもんで)

 

正直、妙な物言いですが、ネットとかのレンタルを駆使して映画を楽しんでる人をみると、あこがれにも似た感情が出てきたりもします。自宅での映画鑑賞ですと、他の「誘惑」も多いので、うまく集中することができないタチなんです。
こちらは映画館に「監禁」されて、「観るしかない」状態にされてやっと集中する感じなんです。もちろん、拷問を受けにいくわけではないんですけど。


一つには、映画を観るという行為にも、ライブ性を何となく求めてるところが、自分にはあるんだと思うんです。シアターでの公演と一緒のものです。

「◯◯時開演だ、会場に急ごう〜」というものが、とにかく好きなのかもしれません。
「今、中断してもいいんだよな...」と思うと、本当に集中しなくなってしまうんです。

まぁ「そもそも論」的に言えば、イシヤマの「飽きっぽい」性格が原因なのは、言うまでもないんですけど。

 


 

で、こういう「飽きっぽい」話の時に、いつもイシヤマが話題にあげるのが、ポメラという製品でして。
キングジムから販売されている、言わば『ワープロ」です。テキストを打ち込むことしかできないものです。

www.kingjim.co.jp

 

これは30-40年前の製品ではなく、10年前に初代が発売された、「現役選手」なのです(もちろん、イシヤマも使っています)。
こんな一見「時代遅れ」の単機能マシンが、結構なヒットを記録をしたんです。今は第三世代くらいで、複数のラインナップがある程なのです。

 

「それしかできない」状態が、幅広い層に受け入れられたからなんでしょうけど、こちらは「自分のような「飽きっぽい」人が、今、多いってことでしょ〜」とか思ったりもしてまして。

というのも、ラップトップで原稿を書き始めたら、ついついウェブやSNSを確認しにいってしまうような「意志」の弱い人(イシヤマです)には、これは最適な道具なのです。
「テキスト打ちしかできない→集中出来る(仕方なく)→マス目がうまってゆく」という図式で、入力を進められるのです。

「飽きっぽい」からこそ、こういう「展開」にも出会うわけでして。
「行き止まり」とか、「どうにもならない」事態って、意外と無いんじゃないでしょうか。

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まぁ「誘惑」に弱い「飽きっぽい」性格も、悪い事ばかりではないと思うのです。「好奇心旺盛」という言葉に置き換えられる部分もありますし
見方を変えれば「柔軟な姿勢を持っている」とか、「フットワークが軽い」というポジティブな意味をまとうことがあるかもしれませんし。

 

自分は「飽きっぽい」が故に、アート・パフォーマンスを作り続けてこれたんだと思うんです
ベースにあったのは、もっと面白いショウを観たいという「欲」で、これは正に好奇心です。
それまでのことに「飽きて」、「今度はこういう要素を取り入れる」「次は□□なアーティストとコラボレーションする」みたいな、新しい「欲」がずっと沸いてきているだけなのです。

 

○○道のように、辛抱強く何年も、一つのことを極めてゆくことを「エラい」とする価値観があるのは分かります。でもそれが全ての「エラい」ではないと思うのです。

 

もし「飽きっぽく」て、目の前のことに集中できずに、「参ったな〜」とため息ついてる人がいたら、こちらは「別に大丈夫じゃない?」と声を掛けると思います。
ちょっと視点をずらしてみるだけでも、状況は好転するかもしれませんし。
ネガティブなだけにとらえるのは、ちょっともったいないかなぁと。

 


 

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